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中学生、高校生におススメ!!国の命令に背いて6000人の命を救った英雄! 【六千人の命のビザ】 杉原千畝

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スティーブン  スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」という映画を観た方は多いのではないでしょうか。

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オスカー・シンドラーはナチスに追われ、行き場をなくした多くのユダヤ人を救ったドイツの実業家です。
 
シンドラーと同じように、多くのユダヤ人を救い「東洋のシンドラー」と呼ばれた杉原千畝(ちうね)という日本人をご存知でしょうか。
 

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2019年7月29日、グーグルドゥードゥルにも選ばれた杉原の人生をたどってみたいと思います。
 

 

 1940年7月

 

リトアニアの首都カウナスにある日本領事館の領事代理である千畝が、ある朝目覚め外を見ると、領事館前に人だかりができていました。

 

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話を聞くとナチス・ドイツのポーランド侵攻により、住むところを追われ避難してきたユダヤ人で、日本を通過するためのビザ発給を求めて来た人たちでした。

 

ヨーロッパの各地では戦火が広がり、ユダヤ人が避難するルートはシベリア経由で日本を通過しアメリカに渡るルートしか残されていなかったためです。

 

当時、日本の外務省から出ていた通過ビザ発給の条件は①最終到着地の国のビザを持っていること②その国に渡るだけの費用を持っていること、があったため千畝はビザを発給できませんでした。

 

人道的にこのユダヤ人たちを救いたいと思った千畝は、日本に臨時措置として通過ビザ発給の許可を求めましたが、ドイツ、イタリアとの三国同盟を重視する政府からはいい返事が得られませんでした。

 

その間にも領事館を取り巻くユダヤ人の数は、日を増すごとに増えていきます。

 

政府の命令に従うか、背いてビザを発給するべきか。

悩んだ千畝の結論は!?

 

生い立ち

 

千畝は1900年1月1日という大変覚えやすい日に産まれています。

 

子供の頃から成績が優秀で今で言うオール5で旧制小学校を卒業しました。

 

ただ、かなりへそ曲がりなことろもあり、父親に医者になるよう勧められたが、教師になりたかったため、医大のテストの答案を白紙で提出したエピソードが残っています。

 

結局、父の意に反して早稲田大学に入学したため、仕送りがなく生活苦から大学を中退し、外務省の留学生として中国に渡りロシア語を勉強します。

 

千畝は喋ればロシア人と間違われることもあったほど、ロシア語を完璧にマスターしたそうです。

 

 その語学力を生かし、1937年に念願のモスクワ大使館に赴任する予定でしたが、以前ロシア人女性と結婚していた過去があり、ロシアにスパイと疑われていたため叶いませんでした。

 

そのためフィンランドのヘルシンキにある日本公使館に赴任し、1939年にこの物語の舞台になったリトアニアのカウナスに日本領事館、領事代理として赴任しました。

 

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こちらは、当時のまま現在も残るリトアニアの日本領事館の建物です。

 

千畝の決断

 

政府からのビザ発給禁止の命令と、人道的に救いたい目の前の命の間で悩んでいた千畝は7月25日ついに、命令に背いて通過ビザを発給することを決断します。

 

しかし、この時点で3,000人近い人数が領事館に集まっていたためビザの発給は容易な作業ではありませんでした。

 

1日300枚を目標に書き始めましたが、ビザの用紙もあまりストックがなく、すぐに底をつくと、すべてを手書きで行わなければなりません。

 

寝る間も惜しんで書き続けた千畝の手は限界に近づいていました。

 

そんなとき、ユダヤ難民の中にハンコの職人がいて、定型文のところのハンコを作って作業を軽減し、スピードアップしたという逸話が残っています。

 

こうして、千畝と難民が一体となって一人でも多くの命を救おうと作業を続けました。

 

8月3日になると、日本から千畝に「リトアニアはソ連と併合し、領事館は閉鎖されるので、急ぎドイツに移動するよう」命令がきます。

 

その後もギリギリまでビザの発給を続け、8月31日に列車がカウナスを出発するまで書き続けました。

 

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         Wikipedeaより引用

 

その数は記録に残っているだけで2,000枚以上あり、記録漏れを含めるとそれ以上となり、1枚のビザで1家族に有効なことを考慮すれば少なくとも6,000人以上の命を救ったことになります。

 

杉原一家のその後

リトアニアを後にした杉原一家はチェコやルーマニアに赴任して終戦を迎えます。

 

終戦から2年ほど経った1947年4月にシベリア鉄道経由で博多に帰国しました。

 

帰国後は藤沢市に移り住み、外務省に復帰しますが、6月に「リストラ」として退職を余儀なくされます。

 

「リストラ」となっていますが、本国の命令に背きビザを発給した責任を負わされたという説も根強く残っています。

 

その後はNHKや貿易の会社などを転々としていましたが、1968年にイスラエル大使館からの一本の電話が人生を変えることになります。

 

ユダヤ難民との再会

言われるがまま、イスラエル大使館に赴いた千畝を待っていたのはイスラエルの参事官のニシュリと言う人物でした。

 

このニシュリ参事官はカウナスでビザの発給を受け命を救われた一人で、ずっと千畝を探していたそうです。

 

では、なぜ終戦から23年もかかってしまったのか?

 

命を救われたユダヤ人たちは外務省に、「リトアニアのカウナスにいた【センポスギハラ】を探している」と何度も問い合わせたが、答えは「そんな人物はいない」の一点張りだったとのこと。

 

千畝は【チウネ】と外国人には発音しにくいため、【センポ】と名乗っていたため照会できなかったといっていますが、【リトアニアの杉原】といえば一人しかいないだろうに。

 

それがお役所仕事なんでしょうね。

 

翌年の1969年にはイスラエルへと渡ります。

 

そこで出会ったのが、かつての難民のリーダーであるゾラフ・バルハフティクです。

 

バルハフティクは、イスラエルの宗教大臣という閣僚になっていました。

 

ここでバルハフティクは、本国の命令に背いてビザを発給したこと。そのため帰国後すぐに外務省をクビになったことなどを知り、大変驚いたと言います。

 

その後、徐々にイスラエルと交流し、1985年に諸国民の中の正義の人として「ヤド・バシェム賞」を授与されました。

 

日本国内ではなかなか名誉を回復することができず、1986年7月31日に死去しました。

 

 イスラエルではもちろんのこと、リトアニアでも千畝の功績は高く評価され、切手のデザインにもなっています。

 

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この千畝の偉業を幸子夫人がまとめたのが【六千人の命のビザ】です。

 

 

中学生や高校生の読書感想文あたりにおススメな一冊ですよ。

 

また、本はちょっと苦手だという方にはこちらのDVDを観ることをおススメします。

 

 

私自身もこのドラマが放送されたときに観て初めて杉原千畝という人物を知りました。

 

 反町隆史さんと飯島直子さん、最近はめっきり見なくなった吹石一恵さんが素晴らしい演技でドラマを引き立てています。

 

是非一度、杉原千畝の偉業に触れてみてください。